増田とその他!
その他2
その他2

2026/03/16 ・ 2,726字・約7分

言葉は本当に本心を表しているのか

#読書感想#言語化#読書

高木さんに誕生日プレゼントとして5000円分の図書カードを貰ったので色々本を買ってきた。
買った本の感想文をこれから書いていこうと思う。
まず一冊目に読んだのはアルベール・カミュの『異邦人』。
こないだ書いた「人生の長さは、選んだ回数で決まるのかもしれない」の記事を作る時にチャッピーにこの本をオススメされたので買ってみた。
個人的に共感する部分もあってめちゃくちゃ面白かったから感想文を書こうと思う。

まず、ざっくりこの本のあらすじは以下の通り。

あらすじ
母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作

—-

この作品を読んで最初に感じたのは、ムルソーへの恐ろしさだった。彼は母親が亡くなっても特に悲しむ素振りは見せないし、社会が当然だと思っているような感情表現をほとんどしない。今の言葉でいうところの、サイコパス的な人間だ。そのため「この人は何を考えているのか分からない」という印象を受けた。人が何をするか予測できないということは、極端な話をすれば、明日自分が誰かに殺される可能性もあるということだと思い、そこに怖さを感じた。

ただ、読み進めて考えていくうちに、単純にムルソーは危険な人物だということではないのかもなとも思ってきた。物語の中でトラブルの原因を作っているのは友人であるレエモンであり、アラビア人もナイフを出して対峙している。もしアラビア人が攻撃する素振りを見せなかったら、あの事件は起こらなかったのではないかとも思った。そう考えると、ムルソーは積極的に暴力を望んでおらず、ただその場での状況の中で行動してしまう人物なのかもしれないと感じた。
しかも殺した理由はなんだと問われたら、「太陽が眩しかったから」と答える。一見意味不明だが、ムルソーは太陽が眩しいだとか、暑い、だとか、その瞬間で感じた不快感などを理由に殺してしまったのだ。
要するにムルソーにとって母親の死もアラビア人の死もただの出来事であり、意味などないということなんだろう。

裁判の結果、死刑という判決が下された時に、何とか脱走できないか、とか、友人がムルソーを庇うような発言をしてくれたときには、「抱きしめたい」と感じている点で、人間らしい(この本でいうところの普通の人間という意味)感情もある。ムルソーが母親の葬式で泣かなかったのは既に母親の死が過去の出来事であり、思い出や愛情に何の意味も見出していないということだ。それでも裁判中に助けようとしてくれた友人に対しては、その瞬間での関係を感じて「抱きしめたい」とまで思っている。

またその裁判では、殺人そのものよりも、母の葬式で泣かなかったことなどムルソーの人格や感情のあり方が問題視されていたのが印象的だった。社会は人の行為だけでなく、「どう感じるべきか」という感情の形まで求めているのだと思った。人は同じ価値観や感情の表現を相手にも求めてしまうし、そうした共通の価値観が社会を成り立たせているのだと思う。

このことを考えていると、社会では状況によって求められている言葉があるということに気付いた。例えば誰かが体調を崩したときには「お大事に」と言うし、誰かの親族とかが亡くなったときには「お悔やみ申し上げます」と言う。もちろん友達がそういう状況になった時に、しんどいのかわいそうだな、とか、親族が亡くなってしまったら、慰めてあげたいなとか相手を気遣う気持ちはあるが、その言葉を口にするとき、どこかテンプレートのように感じてしまって、なんとなく安っぽい感情になってしまうのが毎回違和感があった。

この感覚は恋愛の場面でも感じることがある。恋人に「愛してる」と言われたとき、「この人は本当にこの言葉の意味を理解して言っているのだろうか」と考えてしまう。「好き」という気持ちは理解できるが、「愛している」という言葉は抽象的すぎるように感じてしまい、自分では簡単に口にすることができない。むしろその言葉を口にすると、感情よりも言葉の形だけが先に存在してしまうような気がしてしまう。
「愛している」という事がその感情を伝えるためではなく、あなたの事が大事なので関係を続けたいです、みたいな関係の確認に使われているのかな?と思ってしまう。
とは言いつつ、その人にとったら本心なんだろうし嘘ではないだろうってのは分かってるんだけど。

こうしたことを考えると、ムルソーという人物は「今この瞬間」だけを生きている人間のようにも感じられた。一方で、自分含めて大体の人は自分が過去・現在・未来という時間の流れの中で生きていると感じた。過去の経験や記憶が今の自分を形作り、そこから未来を考えながら行動している。そういう意味では、ムルソーの生き方は自分とはかなり違うものだと思う。例えば自分は親が亡くなった時にとんでもない喪失感を感じた。それは過去に一緒に過ごしてきた時間や記憶が沢山あったからこそ、その出来事に大きな意味が生まれたと思うし、会社の飲み会では未来の人間関係や仕事の事を考えて気を遣った言動をするからだ。

ただ同時に、感じていないことを言葉として表現しないムルソーの姿には、どこか少し憧れのようなものも感じた。本心や実感を大事にして生きることは、ある意味では自由な生き方にも見えるからだ。最近思った事とか本心を言うようにはなってきてはいるけど、それよりも周りの空気を読んだり、場に合わせて言葉を選んだりすることの方が多い。社会の中で生きる以上、そうした規範や暗黙のルールを完全に無視することは不可能と感じている。

だから自分は、ムルソーのような極端な生き方にはなりたいとは思わない。もし本当にすべての社会的な規範を拒否してしまえば、社会の中では生きていけないだろうし、自分は1人で生きていけるほど強くはない。それでもこの作品を読んで、人は本当に自分の言葉や感情をどこまで理解して使っているのだろうか、と思った。これからも社会の中で多くの言葉を使って生きていくと思うが、その言葉が本当に自分の実感に基づいたものなのか、少し立ち止まって考えてみたいと思う。

PS. ペペロンチーノ用に頂いたアンチョビペーストありがとうございました。コクが増して最高です。あと別にこれは誕生日プレゼントを貰ったことに対して社会規範的にお礼をするべきとかじゃなくて本心で書いてますからね。笑

その他2の他の記事を読む →

読書感想の記事

言語化の記事

読書の記事

にほんブログ村 その他日記ブログへ